ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ
『
自分の愚かな偏見、世界の狭さを開き直って、他人の生き方を束縛、否定しようとする人は、本当に最悪だと思う。
私は、刺青やタトゥーを基準に、プールや銭湯、温泉に入ることを断る、禁止することを当然だと思う人を、それだけのことで、軽蔑します。
何を言われても、この考え方が今後変わることは、絶対にありません。』
ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ
『
今のスマホはかつてのスパコンである。学力向上のために、スマホを使うのを禁止しろという議論は、学力向上のためにスパコンを使うのを禁止しろという議論に聞こえる。おもわず、「お、おう」という反応にならざるを得ない。というか、化石的な感性だ。
スマホを何に使うかは、それこそ無限の可能性がある。文章を書くこともできるし(全文スマホで打って芥川賞を受賞した作家も現れた)、英語の論文をダウンロードして読むこともできるし、さまざまな情報を検索することもできる。
アクティヴラーニングや、探索学習などの先端的な学習の実践においては、スマートフォンは邪魔どころか、むしろ必須である。学力向上のためにスマホを禁止しろという主張における「学力」は、時代遅れである可能性がある。というか、時代遅れだと断じてかまわないだろう。
スマートフォンは、単なる道具に過ぎない。その道具が与えられた時に、それどどう使うのか、だらだらサボるために使うのか、それとも好奇心を持って調べたり、つくったりするために使うのか、そのような志向性を育むこと自体が教育の最も大切な役割の一つであろう。
スマホがあるとサボるから禁止する、という教育は二流以下である。スマホという道具があったら、探究心を満たし、手の中にあるスパコンを十全に使おうという子どもの心を育むのが本当の教育というものだろう。学力向上のためにスマホを禁止すべきという主張は、時代遅れ以外の何者でもない。
』
ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ
『
人生の指針として、「大学は行った方がよい」とか、「正社員になった方がよい」といった命題は、普遍性がない。なぜならば、全員が大学にいくわけではないし、正社員になるわけではないからだ。例外処理ができない指針は、しょせん、それだけの価値しかない。
もちろん、大学に行きたい人はがんばって勉強すればいいし、正社員になりたい人は、がんばって就活すればよい。それ自体はよいことである。しかし、それは、人生における部分最適の解に過ぎず、普遍的な行動指針、価値観ではない。
人生における普遍的な指針とは、どんな状況で、どんな人でも成り立つような形式で記述されていなければならない。「大学に行く」とか「正社員になる」とか、一部の人にしかあてはまらないような、あるいは、一部の人しか実現できないことが、これが正しいという顔をして闊歩しているのは害悪である。
例えば、「自分の個性を活かす」という命題は、どこでも、誰にでもあてはまるので人生の普遍的な指針になる。もちろん、個性は発見されるものだし、育つものだし、周囲との調和の中で発展するものでそこに難しさがあるが、「自分の個性を活かす」は、人生の普遍的指針になり得る。
自分が今できないことに、挑戦してできるようになるよう努力することも、人生の普遍的な指針になり得る。どのような状況でも、どんな人でも、その命題は成立するからだ。もっとも、具体的に何に挑戦するのかは、当然人によって異なる。
「大学には行った方がよい」「正社員になった方がよい」という普遍性のない人生の指針を、実際に自分が大学に行って正社員になっている人が言うのは、単なる自己正当化に過ぎない。普遍性のない人生の指針を自己正当化に使う事例はしばしば見られ、そこには自省が根本的に欠けている。』
ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ
『
チクセントミハイの言う「フロー」は、自分のスキルと課題が高いレベルで一致しなければならない。つまり、仕事や作業の負荷を、ある程度高めに設定することによって、初めて「フロー」の状態に達することができる。
スキルが課題よりも低いと、不安になる。それはつまり、スキルを改善する余地があるということである。不安になるくらいの高い課題設定をしないと、スキルののびしろがない。もっとも高く設定しすぎるとやる気をなくすから、ちょうど良いところに設定するのがよい。
少し不安になるくらいの課題レベルにしておいて、自分のスキルをそこに追いつかせる。すると、それまでよりも高いところで、スキルと課題が一致してフローになれる。このようにして、フローの階段を上ることができる。
いちばん行けないのは、スキルレベルに比べて課題のレベルが低いことで、そうなると退屈してしまうし、だらだらしてしまって、フロー自体に入れない。つまり、フローの維持には、課題>スキル程度にしておくことが肝心であって、持続可能なフローは、必ず、フローの階段を上ることを含意する。』
ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ
『
その人の見かけだとか、今されていることとか、これまでされてきたこととか、そのようなことはもちろん大事だけれども、まだ誰も知らない、ひょっとしたらその人でさえ気づいていない、そんな場所にたどりつくコミュニケーションができたら最高なのだ。
そのためには、判断を保留しなければならない。速い反応ではなく、ゆったりとした思考を振り向けなければならない。ふたりでいっしょに漂流していって、あれ、そんなことがあったのですか、それはまあ、とおどろく、そんなコミュニケーションができたら、最高なのである。
そのためには、何よりも、相手の言葉だけでなく、むしろ沈黙に耳を傾けるような、そんな姿勢を見せなければならない。そして、その姿勢が、うまく相手に伝わらなければならない。その姿勢が相手にうまく伝わると、相手の無意識の扉が開く。
表面的な、すでに知られている部分で終始するコミュニケーションは、確認にはなっても発見にはならない。
相手のことを知ってもいいけど、何も仮定してはならない。ましてや、決めつけてはならない。
相手という人間を、その中にどんな魚が泳いでいるかわからない大洋として尊敬しなければならない。』