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エッセイ社会派なブログ??!

朝からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ

「ポストトルゥース」の感性においては、正解は上や他人から与えられるものではなく、自分自身で選ぶものである。権威やヒエラルキーは、全時代の残照に過ぎない。すべてがフラットで、自分はその万華鏡のような色の中に漂うという自己認識ができるかどうか。その自由に耐えられるかどうか。

 


たった一つの「真実」や、「メジャー」なものへの幻想を断ち切った人こそが、「ポストトルゥース」時代における感性を磨くことができる人になる。どんな道も可能であるが、自分はこの道を行くという強さを持つことができるか。私たちは二度と「ポストトルゥース」以前に戻ることはないのだ。

 

朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20180806072009j:imageニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ

日本の大学入試で未だに重視されている「ペーパーテストの点数」という評価関数の稚拙は識者の多くが指摘しているところである。すべての入試はAO入試になるべきだが、その評価関数の多様性と奥行きは、専門家が長年にわたって蓄積しなければ精緻で洗練されたものにはならない。

 


人が人を評価することは難しい。だからこそ、長年の蓄積を通して、サッカーのすぐれた選手のパフォーマンスから、自然言語は苦手だがプログラミングで卓越した能力を示す人、演劇で独自の才能の輝きがある人など、それこそ100や1000の異なる成長の頂きに至る評価のポートフォリオ構築が必要だ。

 


昨日RTで紹介した水泳で驚異的な記録を上げている10歳のクラーク・ケント君についてのCNNのニュースの中で、a savant of sortsという表現がさり気なく出てくるところに、評価関数の複雑さ、豊かさの蓄積という社会資本の充実を感じる。単純で陳腐な評価関数しかない社会は伸び悩むのは当然だろう。

 


女子や3浪以上の受験生の一律減点は、劇画的に愚かな入試政策だったため目立つが、ペーパーテスト依存の大学入試全体が評価関数において稚拙であるという事実から目をそらしてはならない。新卒一括採用という評価関数の陳腐さも同様。日本の社会全体が、評価関数の大幅な高度化を必要としている。』

 

朝からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ

生きている中で、存在の意味がわかったり、この方向で努力しようという感覚が芽生えたり、大きな問題に気づいたり、今まで体験してきたことの意味がわかることが「エピファニー」である。エピファニーは、大きな感動を伴い、その気付きは、忘れがたい瞬間になる。

 


エピファニーの興味深いところは、その瞬間の気づきで終わるのではなく、その後の探究がずっと続くということである。つまり、エピファニーは「端緒」に過ぎず、そのきっかけに始まって、魂の探究(soul searching)がずっと続いていく。そのプロセスで、人は深く広く変わっていく。

 


ジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』は、ダブリンに住むさまざまな人たちが、その人生のいろいろな局面において「エピファニー」を迎える瞬間を描いた短編集とみなすこともできる。もっとも、ジョイスはそれを繊細で曖昧なかたちで描いているので、その趣向は必ずしも明示的ではない。』

朝からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ

タイミングよく子どもの成長を認めてほめるためには、大人は「ほめのアスリート」にならなくてはならない。いつも「よっ、天才!」と褒めているのだと情報量がない。実質的な変化、成長があったその瞬間を逃さずにほめることで、子どもの脳はぐんと伸びるのだ。

 


褒めのアスリートのなるためには、「マインドフルネス」の状態で、子どもの活動を見ていなければならない。そして、なにか特別なことが起こりそうになったら、それに感情のタグ付けをして注目する。そのようにして、たくさん起こっていることの中からひとつを抽出し、注意を向ける。

 


子どもが実質的な変化、成長をした瞬間にそれを逃さずとらえて褒めてあげるという奇跡の瞬間は、毎日はむずかしくても、一年に一度だけでもいい。そんなレアなイベントが一回あるだけで、子どもはそれを支えにして学び続けられる。タイミングよい褒めは、大人が子どもにあげられる最大のプレゼントだ。』

 

朝からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ

大学入試などで、標準的なテストのスコアが参照されることが全くなくなるかと言えば、それも現実的ではないだろう。従って、過渡期的な方針として、テスト学力自体の向上を目的とせず、アクティヴラーニングなどを通して地頭を良くし、結果としてテスト学力も向上するというプロセスが最適である。

 


本をたくさん読んで、教養を身に着け、結果として漢字テストのスコアも向上するというケースが、「地頭」から「テスト学力」への波及効果の事例である。一方、本を読むことなく漢字テストの対策ばかりするのが、地頭の向上なしでテスト学力だけを表面的に改善するアプローチである。

 


学力テストのスコアだけを参照して教育プロセスを改善しようとすると、結果として時間と手間のかかる地頭の向上なしで、表面的なテスト対策をするということになりかねない。それでは、これからの時代に適応できる子どもたちは育たない。学力テストのスコアはあくまで結果であり、目的ではない。

朝からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ

「生産性」というのは、ある文脈の中で定義される。そして、世の中にはたくさんの文脈があり、それをあらかじめ尽くすことはできない。だから、ある人間に向き合うときに、特定の文脈の「生産性」でその人を評価するのは、ごく控えめに言っても部分的な切り取りに過ぎない。トリビアルな誤謬である。

 


人を、その存在自体が尊いとして、特定の「生産性」で切り取ったり評価したりしないというのは当たり前の話で、なぜならば人間存在をすべて尽くせる文脈などないからだ。つまりそれはイデオロギーではなく、冷静、客観的な科学的態度に過ぎない。それが理解できないのは非論理性の表れである。』

 

 

 

朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20180729070835j:imageニコロビンプレゼンツ

茂木健一郎さんからメッセージ

最近のオリンピックの商業化を背景に、オリンピックのボランティアが無償であることを問題にする論がある。もともとオリンピックはアマチュアリズムで、アスリートはメダルや参加すること自体を名誉とし、賞金などの経済的見返りは直接得ない。ボランティア活動も基本は同じだろう。

 


アスリートの場合、メダルを得たり、あるいは出場することによって、有形無形の利益が得られるから、商業五輪においても、賞金などはなくても良いという合意がある。ボランティア活動についても、同じような社会的合意、その意義についての理解ができれば良いのだろうと思う。

 


東京オリンピック中の授業の実施について、考慮すべきという文科省の動きも議論がある。私は、教育効果というものは総合的に判断すべきものであって、大学や高校の授業、試験などをオリンピック期間中は実施せず、ボランティアに当てるという政策自体はただちに非難されるべきものではないと思う。』