深い感慨がある。ところで、勾玉は日本古来だが、その印象的なかたちが何を表しているのかということについては諸説があり、定まらない。
勾玉は胎児のすがたを写したという説がある。なるほど、と思うが、では古代の人はなぜそれを知ることができたのかという疑問がある。月のかたちだという説もある。なるほど、そう言われれば、勾玉は、夜空に輝くお月様を内面化したもののようにも思える。
勾玉は、「魂のかたち」を表しているという説もあって、これはなかなかおもしろい。魂が実在するかどうかは置いて(小林秀雄は、講演の中で、たましいはそのあたりをふわふわ飛んでいるわけではなく、私たちの心の中にあると言っている)、そのかたちが勾玉だというのはおもしろい。
いずれせにせよ、文字がない古代からつくられてきた勾玉が何を表すかは今となってはわかりようがないのであって、私たちは推理、想うしかないが、最後には決着がつかないことは最初から決着がついている。宙ぶらりんで、それで良いのだと思う。
話は変わるが、アーティストは作品の意味を説明すべきではないし、またできるものではない。よくできた作品ほどそうなのであって、謎解きできるような作品はロクなものではない。これはひとつの常識だと思うが、世間では通じないこともあって、説明を求めたり、説明したりする。
説明できるようなものならば、その説明自体が作品なのであって、敢えてかたちにする必要はない。アインシュタインは創造性は起源を隠すことだと言ったが、すぐれた作品ほど、起源が隠れている。あるいは、忘れ去られているか、最初からない。
何事も説明過多な現代において、作品の本質など誰にもわからないのだということを一種の常識として共有することは大切だと思うが、幸い、日本には勾玉がある。胎児なのか、月なのか、魂なのか散々論じ、想像したあとで、結局はわからないで、でも、いいね、という授業を、小学校からやったらいい。
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