今日の読売新聞の一面トップは、中高生の英語力が、国の目標に届かないというニュースだった。以前から思っているのだが、日本人の英語力が伸びない理由は、より一般的な、日本の学力観、学習観と関係しているように思う。
各学年ごとに細かく教科の内容を決め、指導要領があり、教科書を検定する(検定するから、ものすごく薄い)。このような日本的な学力観はいろいろな教科で害を及ぼしているが、その害が英語だと計量的に把握しやすいということだとおもう。
言うまでもないことだが、学びはオープンエンドであり、ここまでやったら終わり、ということはない。本来は、人間は、限定のない空間でのびのびと運動して、その中で学んで行くのだが、今の日本のやり方だと小さく前にならえでチイチイパッパだ。
そもそも、中学でやるボキャブラリーは、これくらい(1000単語?)とか、制限があるというアプローチがダメである。高校入試で使われる単語は、ここまで、という制限もダメである。言語学習は最初からオープンエンドにしないと、伸びるものも伸びない。
前にも書いた話だが、吉田秀和さんとお話した時、旧制高校のドイツ語では、初日にABC(アーベーツェー)をやった後、二日目にはニーチェを読まされたという。「いやあ、昔は野蛮でしたよ」と吉田さん笑っていらしたが、その野蛮さがないと、伸びるものも伸びない。
ちなみに、日本的標準化学習が害を及ぼしているのは英語だけではない。数学も、私は以前から「文系」(この言葉自体がナンセンスだが)にも、無限集合論のエッセンスは伝えるべきだと考えている。眼鏡をかけて帽子をかぶっている人は何人か、が集合論だと思っていると基本的に知をなめる。