国家が主権(sovereignty)を持つというフィクションが、グローバル化の中で脅かされているがゆえの反動として、国家のエゴを追求することに対する恥じらいのない容赦なさが、どこでも起こっている。中国やロシアだけではない。
なぜ、このような時代が啓蒙主義と無関係かというと、かつてのイデオロギー対立のような上部構造がないからだ。もっと、むき出しの生命としての利己性が、大国を含めた国家のモティーフになっている。そのような時代に、人々は慣れ始めてしまった。
加えて、最近感じるのは、テクノノジー、特に、人工知能の発達である。人工知能が、ムーアの法則の波に乗って急速に賢くなったため、逆に、人間が賢くなるべきという淘汰圧が減少して、まあ、そこそこでいいか、という弛緩が生じているような気がする。
人工知能が象徴するのは、システムである。インターネットなどのインフラがしっかりしていれば、大国の大統領候補が少々問題発言連発の道化者でも、まあ、いいか、というような、そんな許容の精神が生まれているように感じる。