ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからの朝のブヨブヨ小説『 突然、トムが立ち上がった。
ジャックは、戸惑いを感じつつも、トムの後を追って、外に出るしかなかった。
最後にかいま見たジェルキンス神父の顔は、冷たい無関心に覆われているようで、そのことが、ジャックには、なぜか切なく胸に迫った。
スタテン・アイランドには、初夏の日差しが降り注いでいた。
つい先程までの、ジェルキンス神父との会見の雰囲気がまるで別世界のことのように、屋外にはさわやかな風が吹いていた。
「ほら、あそこに。」
少し緑の多いところを歩いていたからだろうか。どこからか紛れこんだ鹿が、春の精が少し遅れてやってきたような足取りも軽く、視界の中を横切っていった。
あの鹿は、現実のものなのか、それとも。
ジャックは、いろいろなことに、もはや、自信がなかった。
「昔、テレビのドキュメンタリーで、日本では鹿が神の使いだと見たことがあります。」
トムが、世間話でもするような気楽さで、「神」に触れた。
その時、ジャックのスマートフォンが震えた。メッセージを見たジャックは、しまった、と思った。
「トム、行かなければならない、ランチ・パーティーを忘れていたよ。」
それから、ジャックは、その会場で昨年もあったそのパーティーの、シャンパンの泡立つグラスと、重ねられたサンドウィッチの光景を思い出した。
「もし良かったら、トム、君も来るかい?」
トムは、返事の代わりに、春風の中の鹿のようなほほ笑みをこぼれさせた。』