現代アートは、つまりは「なんでもあり」で、アーティスト本人の意図と、それから文脈によって、通常ならばアートとは考えられないようなものも、アートとなる。もちろんそれがどう受容、評価されるかは、別の問題になるわけだが。
ろくでなし子さんの裁判で、「データ配布」の部分だけが有罪になった、という判決結果に対する私の違和感は、以上のような認識にもとづいている。データ配布もまた、アーティストの意図や、文脈によっては、アート表現の一部分になり得るからだ。
今回の判決で、具体的な「ブツ」のあり方を通して芸術性を論じたのは、結局、モノ=「ブツ」が芸術であるという古典的な(しかしもはや時代遅れの)認識にもとづいているように私には思える。
もっとも、法律というのは、もともと保守的なものであり、時代の流れで言えば、最後尾をついてくるものだから、今回の判決は、司法関係者にとってはさほど違和感がないのかもしれない。アーティストにとっては、違和感おおありだろうが。
もちろん、アート表現であるということが、万能の免罪符になるわけではないが、チンポムの岡本太郎さんの『明日の神話』への「付加物」の添付の件を思い出しても、日本の司法関係者は、もう少しアートについてのリテラシーを現代化しないと、すでに実社会から乖離し始めているように危惧する。