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いきなりメッセージ

f:id:barussnn127:20160326124751j:imageニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『
組み体操の「中止」や「禁止」は徹底されず、怪我をしないように注意しながら続ける、ということらしい。納得がいかない。以下に、組み体操についての分析をいくつか書くことで、問題提起をしたいと思う。

まず、「組み体操」は、「体操」ですらないということだ。「体操」であるためには、感覚と運動が有機的、ダイナミックに統合されて展開されなければならないが、「組み体操」で問われるのはせいぜいバランスと我慢。つまり、「組み体操」は「体操」ですらない。

「組み体操」で「感動」するというが、その「感動」の内容は何か。それは、ある構造物をつくるために、人が、その個性に関係なく、「部品」になるということである。「力を合わせて」というが、それは静力学にすぎない。

みんなでダンスをしたり、サッカーや野球をしたり、という時の「力を合わせて」には、感覚運動統合の視点から意味があると思うが、「組み体操」で「力を合わせる」ということは、つまり、全体の部品になるということでしかない。

すでに指摘されているように、「組み体操」は、個性を無視して、人を部品として扱う、という社会のあり方と整合性があるからこそ、これまで続けられてこられたのである。しかし、そのようなやり方では、もはや社会は発展しないし、経済も成長しない。

人が、それぞれの個性を活かして、水の中の魚のようにすばやく周囲を感知しながら動きまわることでこそ、日本はこれから発展するのに、組み体操のようなアナクロニズムを続けることに、なぜそれほど固執しなければならないのだろうか。

「組み体操」には、日本の教育、特に初等教育のダメな点が、凝縮されていると感じる。小さく前にならえ、などの集団主義のマンネリズムも、もはや謎でしかない。そのようなやり方を続けているから、日本は付加価値を生み出せず、長期にわたって没落する国になってしまっているというのに。

結論。組み体操は意味がないから、やめるべきである。これは、個人的な意見ですが、必ずしも少数派ではないと思います。組み体操の意味のない練習をやめたら、その分、もっと楽しく意味のある身体感覚運動の鍛錬の時間ができると思う。』