一般論として、男女の平等が現在における普遍的な価値であることは間違いない。男性、女性だけでなく、その他の性的マイナリティの方が、それぞれの個性を活かした幸福追求の権利を持つこと自体を疑う人はいないだろう。
一方、皇室典範に、形式的に男女平等の原則を当てはめることが妥当かと言えば、そうではないだろう。そのような議論は、ある原則を、すべての事例に適用してしまうという、認知的な誤りであると考えられる。
仮に、皇室典範が今のままで、天皇陛下になられるのは男性のみだとしても、一般社会において、女性が今よりも広く活躍し、社会的なサポートを受けられる国になることはもちろん論理的に可能である。つまり、皇室典範と、男女の平等は、関係ない。
国連は、人権や平等といった普遍的価値が、そのまま議論の前提となり、基礎となりやすい組織である、そのような組織が、皇室典範に男女の平等という視点から言及するのは、いかにもあり得ることである。しかし、それは、以上のように、一つの認知的錯誤だと考える。
問題はここからだ。皇室典範に、男女の平等という現代における普遍的価値を当てはめるのが認知的錯誤であるのと同様に、今回の国連の動きに反発している方々の中にも、さまざまな認知的錯誤があるように感じられる。
まず、皇室典範において天皇陛下になられるのは男性であると規定されていることと、一般社会における男女の平等は、論理的に独立である。ところが、皇室典範を擁護する方々の中には、男女の平等の推進に消極的な人がいらっしゃるという傾向がある。
国連の今回の事案に対する反発は、人権や平等といった普遍的な価値に対する反動とは無関係のはずであるが、両者は、しばしば混同されている。グローバル化や、普遍的人権思想に対する反発と、区別がつかないような事例も、散見される。
今回の国連の事案に対する成熟した政治的態度は、「皇室典範は人権などの普遍的価値とは無関係」であると特に言及せずに無視することであり、国連のあり方や国際的な情勢に対する反発に結びつけることは危険である。特に、戦前に国際連盟を脱退した経験のある国においては。
逆に、リベラル派の一部の方に見られる、一般社会における男女平等の原則と、皇室典範の問題を混同する論調も整理されるべきであろう。皇室典範が今のままでも、社会における男女平等が画期的に進むことは可能であり、それを目指すべきだろう。