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いきなりメッセージ

f:id:barussnn127:20151220134835j:imageニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『
今朝、トイレで内田百閒の『阿房列車』(マイ・ヘビーローテーション・ブック)を読んでいたら、平山山系くん(ヒマラヤ山系のだじゃれ)が出てきて、平山くんが、相変わらずあーだのうーだの要領を得ない。しかし、だから内田百閒先生の旅のおともにふさわしいのだと思った。
内田百閒先生は、漱石のお弟子さんであり、頭脳明晰、該博にして、味にうるさい。こだわりがある。そんな百閒先生と、あーうーと要領を得ない平山山系くんが一緒に旅しているからこそ、味わいも出るし、またバランスがいい。
たとえば、百閒先生は、列車の乗り継ぎの時に、駅員が「急いでください」と言っても、絶対に走らない。他の客がみんな走っていても、走らない。悠然と歩いて、目の前で列車が行ってしまうと、さあたいへん。ご機嫌を損ねて、次の列車まで何時間も待つといって、ベンチに座って動かない。
そんな時に、走りましょうとか、何か買ってきましょうかとか、要するに世間の常識にしたがって動くのが平山山系くんで、平山くんがいないと、百閒先生も機能しない。つまり、賢いのだが狭いから、平山くんがアシストしないとダメなのである。
そんなことを書いていると、シャーロック・ホームズとワトソンの関係を思い出す。シャーロックはワトソンのことをいつも足りないと馬鹿にしている。しかし、シャーロックは逆に偏屈で狭いので、ワトソンがいないと機能しない。
百閒先生にとっての平山山系君、シャーロックにとってのワトソン君を、英語で言えばsidekickということになるのだろうが、とにかく、main characterはsidekickがあって初めてバランスがとれるのであって、そうでないとそもそも機能しない。
ところで、人工知能はsingularityで人類の知性を超えるが、それはスーパーサヴァンのようなもので、鋭いが狭いだろう。すると、人類は人工知能のsidekickとなってその機能をアシストするという道があるように思う。『阿房列車』や『シャーロック』を研究すべし。』