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朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20151120074150j:imageニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『
ぼくがマレーシアに行っている間にネットで見た日本のニュースで心を動かされたのは、横綱白鵬が猫だましをしたことだった。帰ってきて、さっそく、ネットで動画を確認していた。横綱、立ち会って栃煌山の前で、たしかに「パチン!」とやっていた。へえ〜と思った。
猫だましというと、舞の海さんのイメージが強い。技のデパートと言われた舞の海さんは、何回か猫だましをやっていた。舞の海さんのような小兵力士がやる奇策だと思っていたから、重量級、本格派の白鵬がやったことに、意外感があったのであろう。
横綱には品格が求められる。神に通じるわけだから、人格的にもすぐれていなければならない。今回の白鵬の猫だましに対して、さまざまな批判が出ることは予想できることであった。北の湖理事長も、苦言を呈したという。
ここが難しいところで、何しろ白鵬は強いし、今場所も休場明けで全勝だから、たいへん立派で、並の力士、親方が批判しても、なんだかそぐわない。その点、北の湖理事長は現役時代「にくらしいほと強い」と言われた大横綱北の湖理事長だからこそ、猫だまし白鵬に苦言を呈することができるとも言える。
それにしても、今回の白鵬の猫だましは味わい深い。まず、白鵬はそのような奇策に出なくても、正攻法で行っても勝てるわけで、なぜ猫だましをしたのかと言えば、伝えられるところによれば探究心だという。本当に効果があるかどうか、ためしてみたというのである。
効果があることを試す、というのは、「遊び」に近い。白鵬のように歴史に残る名横綱が、その力の満ちた状態で、果たして「猫だまし」に効果があるのかという探求心という「遊び」の心を持っているというのは、ぼくとしては大いに称賛していいことだと思う。
そもそも、横綱らしさとは何か。世間においてイメージされやすい横綱らしさ、というのはわかる。それは冷静沈着でいわゆる横綱相撲をとる人のことを言うのだろう。しかし、横綱が相撲の神さまに近い存在ならば、逆に「猫だまし」もあるのではないかと思うのである。
もし、横綱が相撲の神さまに近いのであれば、その神さまは猫だましなどなさらない、というのは、日本の文化の源流を考えればあまりにも狭い解釈なのであって、むしろ神さまは猫だましもなさる、おおらかな神さまだと考えた方が伝統に近い。
日本人にとっての心の原点を示す「古事記」を読んでいても、神さまは謹厳だけではなく遊び心があり、いたずらもなさるのであって、つまりそれは生命力の象徴だと思う。日本の神さまは、猫だましもなさる神さまだと思う。
ちなみに、ギリシャ神話における神さまも、さまざまないたずらをなさり、遊び心を持っている。ギリシャ神話の神さまがもし相撲をとられたならば、猫だましをする、ということは十分に考えられるのではないかと思う。
最後に、私はモンゴルには行ったことがないけれども、かの国の文化のどこかに、白鵬のような押しも押されぬ地位についても、(批判されるとわかっていても)つい猫だましをやってしまうというような、一種の精神性があるのではないかと思う。そこに実はたいへん関心がある。
白鵬朝青龍がどのように比較されうるのかわからないが、二人の名横綱のどこかに、杓子定規な「横綱」観を越える遊び心ややんちゃ心のようなものがあるような気がして、それが、容易には抑えがたい生命力である気がして、大げさなことを言えば、チンギスハーンに通じるスケールの大きささえ感じる。