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朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20151023065528j:imageニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『
映画 Me and Earl and the Dying Girl を観て思ったこと
アメリカは、国全体としては、どちらかと言えばマッチョで、未来に対する楽観主義的な心性を持つと思うけれども、その文学、映画の最良の伝統は、むしろ、ナイーヴさ、傷つきやすさの中にある。特に、「傷つけられうること」(vulnerability)に対するすぐれた感覚の作品が多いと思う。
そんなことを思い出したのも、飛行機の中で、映画Me and Earl and the Dying Girlを見たからで、まだ日本では公開されていないようだけど、公開されたらヒットするような気がする。男の子がいて、その友だちがいて、二人は名作をパロった映画をつくっている。
そのふたりの知り合いの女の子が病気になってしまう。さらには、男の子が惹かれる魅力的な別の女の子もいる。友情と、ほのかな恋愛感情と。その中で、男の子は要するにgrowing painsを経験するわけだけど、脚本はcleverで、charming。日本のオーディエンスにも響くだろう。
アメリカ文学の最良の部分は、人間のvulnerabilityを扱っている。グレート・ギャツビーもそうだし、ライ麦畑もそうだ。映画でも、レッドフォードの、A river runs through itはまさに若さゆえの傷つけられやすさ、そしてもちろんスタンド・バイ・ミーも。
この場合の傷つけられやすさは、若い、ということのprime timeに起こることが重要で、決してめそめそしているだけでなく、むしろ希望を持って新しいことに向かっていて、その輝かしい若さの底に、それがいつか失われるという恐れ、不安が隠れている、というのがアメリカ的な形式である。
ジョン・アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」は映画化もされたが、繰り返されるフレーズ「Keep passing the open windows」は、人生の傷つけられやすさをわかった上で生きる希望、意志を描いている。印象的なフレーズだ。
人間のvulnerabilityに対する感覚は、キリスト教の、mortalityの感覚にも通じていて、突き詰めれば、一人ひとりの人間が、孤独で、世界に向き合っているというそのようなあり方と関係しているのだろうと思う。シカゴを歩いている時に、個が孤であることが最大の違いだと感じた。』