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朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20150816093847j:image茂木健一郎さんからのメッセージ
ニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『村山談話を貫く!
村山談話が話題になっているけれども、その内容とは全く関係なく、村山富市元首相の「談話」全般をまとめてメディアが報じる際に気になっていることがある。それは、語尾が「じゃのう」「・・・なのじゃ」などとなりがちで、要するに日本昔ばなしに出てくるおじいさんのような言葉遣いになっている。
村山元首相は、その風貌も含めて、日本人が思い描く「おじいちゃん」のイメージにぴったりで、おじいちゃんと言えば語尾が「じゃのう」「・・・なんじゃ」というわけで、村山談話の語尾は「じゃのう」でなければいけないという強い思い込みがある。
日本語は、話者の属性が語尾に現れやすい言語で、女性だったら、「・・・かしら」「・・・と思うの」みたいな感じにならないと気分が出ない。逆に、トランスジェンダーの人は、男から「そうなのよ」「ううん、違うと思うの」みたいに言うだけで女になれて便利、という側面がある。
これが、英語だと、ジェンダーとか社会的立場による語尾の変化、みたいなものがないから、男性でも、女性でも、年齢に関係なく、フラットな感じになって、慣れるまで物足りない。Pride and Prejudiceなんかを読んでいても、男の発言と女の発言にメリハリがなくて、平板である。
逆に、英語だと、話し手の属性が言葉に現れないだけ、普遍的な「人間」が立ち上がりやすいという側面があるのだろう。村山談話は日本語では「じゃのう」だが、英語でやると、リンカーンゲティスバーグ演説と同じフラットな世界に入って、そう思うと新しい可能性が開ける気がする。
先日、東洋経済の方々と、グローバル化の時代には、むしろ、文脈を切り替えて、日本語の文脈の時には思い切りひたっていいんじゃないかという話をした。英語では、話し手属性と関係ない話し方をする。一方、日本語は、思い切り語尾で「じゃのう」「・・・だわ」「違うもん!」と遊んでいい。
ちょうど、車が道路の左側と右側を走るのが、最初はとまどうけれども、なれると簡単に切り替えられるようになるのと同じで、話し手属性に思い切り依存する言語と、そうでない言語の間を言ったりきたりして良い。というわけで、村山談話はこれからも思い切り「じゃのう」を貫いていただきたいと思う。』