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朝からメッセージ

ニコ・ロビン朝からハッスルしようポッポッポーポポポポーン123456ウンコ➖➖‼️f:id:barussnn127:20150812064509j:image反省についてニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ『
時節柄、「反省」という言葉をよく目にするが、キリスト教と仏教では、「反省」の意味が違う気がする。
キリスト教では、良いことと悪いことがはっきりとしていて、「反省」の核心は、自らが行った悪いことを、神の前で、ないしは神の代理人の前で、「告白」(confession)することに重点が置かれる。神父の前で告解を行うのが典型だ。
一方、仏教の伝統では、生命をもともと良いことと悪いことがないまぜになった複雑な事象としてとらえていて、「反省」というのは、いわば、そのような生きるということのやっかいさを自ら省みて、「リセット」するというような、そんなアプローチである気がする。
立川談志さんは、落語とは「人間の業の肯定」だと言ったが、仏教における「反省」はそれに近くて、清濁合わせ持つ人間の根源的な欲望のようなものに対して、それをまるごと引受け、可能ならばそこから解脱する、というような視点であって、キリスト教におけるような絶対的善悪の峻別はそこにはない。
仏教的な伝統での「反省」は、生きるという業の延長線上にあるから、その句読点として、たとえば四国のお遍路さんになる、というような展開が出てくる。絶対的な善、悪を前提に、聖職者の前で告解するというかたちにはなりにくい。
欧米で、回顧録のような書物で、自らの非を認めることが是とされるのも、告解の伝統ゆえだろう。古くはアウグスティヌスの『告白』がある。「反省」という言葉を使うとき、そしてそれが翻訳される時には、文化的な伝統の差異にも目を向けないと道を誤る。
私自身は、キリスト教的「反省」にも心を惹かれるところがあるし、仏教的「反省」もひとつの生き方だと思う。つまりは生きることの真ん中につながるやりかたが文化によって違うというだけで、人間が生きるということはひとつにつながっているというだけの話だろう。』