周辺の読者は、『火花』の内容や、その文学作品としての性質についてあれこれと言う。ところが、私の知り合いの編集者、いわば本作りのプロたちが言うことは、開口一番「いや、出版界にとってよかった」である。本を読まない人が、読むきっかけになればと、その点をとらえて肯定的に評価する。
プロの編集者の見方は、それなりの見識であろう。作品の質は、つまりは主観の問題であり、良い、という人とと悪い、という人が議論をすれば、結局は水掛け論になる。一方、『火花』の芥川賞受賞で本が売れ、出版界が活性化するというのは客観的、定量的に見た現象であって、議論の余地はない。
もともと、芥川賞、直木賞は、文藝春秋の創業者の菊池寛が、「興行」のために仕掛けた。2月、8月は「ニッパチ」と言われるように雑誌売上を始め経済活動が停滞するので、話題つくりのために文学賞を設けた。その結果が大成功であることは、改めて言うまでもない。
もっとも、「興行」としての文学賞は、その宣伝意図を読者に見透かされれば心が離れる。讀賣新聞の鵜飼哲夫さんは、ある時、「芥川賞が注目される理由の一つは、選考委員が丁々発止、容赦ない論評を加えることもある」と言った。確かに、選評を読むと、こんなものは受賞に値しないと断言する人もいる。
結局、編集者たちが言うように、芥川賞は、興行としてのきわめてすぐれた仕掛けであると同時に、選考委員たちが丁々発止、真剣に議論し、選んでいるということで、その興行価値が担保されているのであろう。
先日、ある研究会で島田雅彦といっしょになった。トイレに立った、島田も同じタイミングで立ったので、となりで連れションすることになった。島田に、「火花どうだった?」と聞いたら、「いや、作品本位で選考したんだよ」と、きわめて優等生の答えが返ってきた。ぼくは島田の顔をもう一度見た。