「日本」と、大文字で書いてしまうと、それが動かしがたいもののように思われるけれども、「日本」は生きているから、呼吸をして、行き交って、混ざり合って、少しずつ変化しながら、「日本」であり続けている。「日本」はひとつの生命であり、偶有性の中に、その存在を見出している。
ミス・ユニバースの日本代表に、宮本エリアナさんが選ばれた。素敵な方のようである。お母さんが日本人で、お父さんはアフリカ系のアメリカ人だという。今の「日本」という国の多様性を表している。「日本」はひとつの生命であり、行き交って、少しずつ変わって、それでも「日本」なのだ。
日本人とは、こんな感じである、という「固定観念」のようなものは、ある場面では有効に作用するだろう。しかし、「日本」が生命である以上、それは変わるのである。日々変化する子どものように、「日本」は変わり続ける。それでも、受け継がれるものがある。それでいいではないかと、私は思う。
実は、「日本」ということをいちばん規定しているのは、言葉ではないかと思う。宮本エリアナさんは、流暢に日本語を話されるのだろう。その時点で、彼女は間違いなく「日本人」だ。独特の音韻を持ち、オノマトペが多く、微妙なニュアンスを持つ日本語。日本語を話す人は、みな、「日本」ぽくなる。
日本人が、典型的な「外国人」として思い浮かべがちな、金髪で青い目の人も、日本語を達者に話していると、「日本」ぽくなる。日本語は、英語ほどの国際化の域には達していないが、だからこそ、日本語を話すということが、「日本」という生命への接続の、一つの分かれ道になっている。
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