百歩譲って、「社会の通念」とか「秩序」のために、同性婚カップルを認めるわけには行かない! と思っていらっしゃるとしよう。そのような意見を持つこと自体は仕方がないかもしれないが、そう考える自分が、社会の「良識」だと考える、その思い込みこそが偏見なのだと気づいていただきたい。
偏見はどの社会にも存在する。かつて、天才数学者アラン・チューリングも、同性愛を「病気」とみなす当時の社会の「偏見」によって、ホルモン注射による治療を受けさせられ(そう、英国もかつては野蛮だったのだ!)、最後は自ら死を選んだ。賢く、心優しい人が、社会の愚かな偏見の犠牲になったのだ。
そもそも、デモって、先日、オバマ大統領がかつて公民権を訴えてデモがあったアメリカの橋をいっしょにわたったように、個人の権利や、自由を拡大する、という方向で行われるのが本来であって、それを抑圧しようという側がデモをするというのは、なんだか、恥ずかしい。もちろんそれも自由だけど。
さまざまな研究によって、同性愛か、異性愛か、という嗜好性はその人の生まれつきの個性とかかわることが明らかになっている。社会に異性愛の人が多いからと言って、同性愛傾向の人を排除しようとするのは、つまりは個性の否定であって、そういうことしていると、必ず自分にかえってくると、私は思う。』