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いきなりメッセージ‼️

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ニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからメッセージ‼️『芸術は抑圧された者に寄り添う

昨日、博多入りして、佐賀新聞社長の中尾清一郎さん、電通の佐々木厚さんと懇親した。ご飯を食べたあと、ホテルの部屋で、オペラの動画を見ながら、さらに飲んだ。そしたら、オペラに造詣の深い中尾さんが、するどいことを言った。

すぐれた芸術とはなにか。それは、弱者や敗者の立場をわかる人でないと書けないものである。たとえば、ヴェルディの『アイーダ』では、凱旋行進曲がある。それだけではすぐれた芸術にはならないだろう。終幕、生きながら閉じ込められてしまった二人の重唱に寄り添うから、『アイーダ』は心に残る。

歴史は、勝者によって書かれるのかもしれない。しかし、勝者の歴史は、決してすぐれた芸術にはならない。それは、人を感動させない。人生は、うまくいかないことや、挫折することや、片隅に追いやられることがしばしばある。そのような体験に寄り添わなければ、すぐれた芸術にはならない。

ルネッサンス期には、神が創造したこの宇宙で、欠けている要素を補うのが芸術であるという観念があったそうである。勝者が我がもの顔でのさばるのが生物の掟だとすれば、それを補う芸術は、虐げられたものをすくい上げるものでなければならない。たとえば、モーツァルトの『後宮からの逃走』のように。

理性的なものが、一見理性的に見えないものに向き合う時に生じる齟齬は、多くが、虐げられた者たちの叫びに関係しているように思う。理性の言葉が、時に、届かないことがある。政治的な言葉は、そんな状況では無力である。芸術が生まれる隙間がもしないとしたら、芸術の素養は、潤滑油となる。

同じアラビア語を話す地域が、なぜあれだけ多くの国に分裂しているのか。たとえば、そんな素朴な疑問から理解しようと努めることが、大切ではないか。理性がすぐには理解できない不条理の背後には、根深い抑圧がある。生命第一は決して弱腰ではなく、理性よりも深い、人間の心性に接続している。