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朝からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『  

先日、朝日カルチャーセンターの時に、ある英語の本について、ぼくが今それを読んでいて、本当に面白い、という話をしたら、受講生の一人が、たまたまその日本語訳を読んでいて、読み進めるのが苦痛でたまらなかったと言われた。それで、ぼくはへえ〜と驚いてしまった。

その本は、具体的な書名はここには記さないけれども、ノンフィクションのベストセラーで、書き手のひとがほんとうに達者で、英語の表現、話の進め方、文章のリズムがほんとうに素晴らしい。ところが、それを日本語訳したのが読むのが苦痛とは、どういうことかと考えた。

一つの可能性は、翻訳がへたくそだったということだが、どうも、そうでもないらしい。その読み手の方は知的な方である。どうやら、素晴らしい英文を、日本語に直すと、あまりおもしろくない、という事象があるように思う。

英語の文章は、表現についての冗長性を避ける美意識が強く、また、切り替えや転換のすばやさのリズムも、日本語の文章とは異なる点がある。英語の表現としてすぐれたものほど、日本語には訳しにくい、ということが事実あるように思う。

英語の名文を日本語に素直に訳すと、必ずしも名文にはならない。ここに、翻訳ということの難しさがある。将来人工知能である程度翻訳ができるようになったとしても、このあたりの審美的視点は、必ずしもクリアできないかもしれない。

私自身は、ある時期から英語の日本語訳が読みにくく、英語の原文で苦労なく読めるようになっていることもあって、書評などの必要がないかぎり、ほとんど日本語訳を読まない。これは、読んでいて、英語の原文がちらついてしまうということとも関係しているように思う。

時々、ニュースサイトなどで、英語のニュースを日本語に訳したものを読むことがあるが、これは短い文章であることもあって、あまり気にならない。やはり、ある程度の分量の、「作品」として読む文章において、翻訳の難しさが特に痛感されるようだ。

意味の疎通という視点からではなく、文章のリズムや読み味といった審美的な視点からとらえると、翻訳というものはなかなかやっかいだと思う。柴田元幸さんのような名手の技が、一つの優れた芸術であるゆえんであろう。』