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昼からメッセージ

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ニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『

オーケストラの指揮者とはどのような存在なのか、考えることがある。以前、佐渡裕さんとの仕事で、少し振らせていただいたのだが、タクトの動きと、オケの音の間にある微妙な「遅れ」が、とても本質的なことなのだと気付かされた。

オケの方は、指揮者のタクトをずっと注視しているわけではなくて、いわば「自動運転」しているところがある。感覚を聞くと、ちょうど、運転しながらバックミラーを見ている、その感じなのだという。指揮者がタクトで細かいところまで指示、コントロールしているわけではなさそうだ。

また、実際には、お互いの演奏を聞きながら、合わせているところもあるという。凄いオケになると、完璧に聞こえるくらいにシンクロしているが、情報の流れから考えても、その合致がすべて指揮者のおかげだと考えるのは、難しい。

そんなことを考えていると、以前、取材でベルリン・フィルの方々に話を伺った時のことを思い出す。指揮者によって、実際に音が変わる、ということはあるらしい。一方で、指揮者が変えようとしても、オケの自律性があって、簡単には変わらないということもある。

こんなエピソードを聞いた。ある時、ベルリン・フィルがリハーサルをしていて、突然、音が変わった。どうしたのだろうと思ってリハ室の入り口を見ると、いつの間にかフルトヴェングラーが来て、佇んでいたというのである。

フルトヴェングラーのカリスマ性を背景にした、一種の伝説、神話かとも思うが、指揮者には、「理想の聴き手」という側面があるのだと思う。細かいニュアンスや、深い音楽性まで、聴き分ける人の前で演奏するという緊張感、心の張りが、演奏を変え、音楽を生み出す。

聴き手としての指揮者は、タクトを振りながら、オケの前に陣取って、音楽に耳を傾けている。オケとしては、聴衆を満足させたいという思いももちろんだが、この、理想の聴き手としての指揮者に、良い音楽を届けたいと思う。それで、張り切る。

本の書き手にとっては、すぐれた編集者が理想の読み手だというところがある。この編集者が、どのように読むか。そのことを緊張とともに想定して、文章を綴る。このように考えると、理想の聴き手、読み手が必要とされる局面は、人生でたくさんありそうだ。』