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朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20151214075028j:imageニコロビンプレゼンツ、茂木健一郎さんからのメッセージ「不条理の背後に感情あり
小学校の「かけ算」の順序問題はあまりにも愚鈍、不条理で、子どもたちがかわいそうだし、そんな指導をしている現場の先生、なによりもそんな無意味思想を広げている責任者たちは猛省してほしいが、そのことを「カフカ的」とさっきツイートして思い出した。
理由がなく不条理に巻き込まれる状況を、カフカの名作、『審判』や『城』、『変身』などになぞらえて「カフカ的」というわけだけれども、カフカの作品の本質は、実は「感情」にあると思う。今朝は不条理と感情の関係について考えたい。
カフカ村上春樹さんの作品の共通点として、主人公が理由があきらかでなくもてる、ということがある。『審判』でも、『城』でも、とにかくもてる。女たちが、主人公を放っておかない。もっとも、それ以外の点においては、主人公はあまり恵まれていないのだけれども。
この「理由なきモテ」に付随して、いわば痴話喧嘩的な感情のあれこれが起こる。『城』は未完で、男は『城』の本体にたどり着かないのだが、小説の後半は、ほとんど、男をめぐる複数の女の嫉妬、感情のもつれのようなことが延々と書かれている。
カフカ的不条理というと、どちらかと言うと、全体主義的国家のような、無機質の、冷たいものが連想されがちだが(実際に、そのような側面もあるのだけれども)、実際には、男女の関係のような、湿って、温かく、厄介な感情がモティーフになっていることが面白いと思う。
感情をたっぷりと、しつこいくらいに描いているところに、カフカの文学の持っている普遍性、古典性があるように思う。不条理状況の具体的なガジェットは、時代とともに変わる。ところが、感情はそんなに変わらない。石器時代くらいから、おそらくそんなに変わっていない。
カフカの描いた『審判』や『城』、あるいは『変身』の設定自体は、具体的なアイテムレベルでもはや古くなっているのかもしれないが、そこに描かれている感情が古くない、今でも同じように続いているからこそ、その作品は読み継がれている。
つまり、不条理の背後には感情がある。不条理の怜悧な機械仕掛の背後には、切れば血が出るような、人間臭い、感情のドラマがあるのだ。さて、数学をよくわかっている理系の専門家がこぞって無意味だと批判する小学校の算数のかけ算の順序問題、この不条理の背後には、一体どんな感情があるのだろう?」