フェアネスの感覚は大事だと思う。ぼくは、「ある属性」によって、自動的に自分の方が優位に立つ、という構造が好きではない。フェアではないと思う。ずるいと感じてしまうのである。
たとえば、年齢によって「先輩」「後輩」で「後輩」は「先輩」の言うことを聞かなくてはいけないというのはフェアではないと思う。「男性」は「女性」の、「女性」は「男性」の上であると思うのもフェアではないと思う。
なぜ、以上のことがフェアではないと感じるのかというと、性(ジェンダー)や、年齢、国籍、エスニシティ、母語などは、本人の努力でなんとかなる属性ではないからだろう。比較されるのならば、本人の努力で何とかなる属性であるべきだ、とぼくは考える。
本人の努力でどうすることもできない属性で他人を下に見たり、差別したりする人たちを観察していると、その根底には自分自身の劣等感があったり、さぼり心があったりするように思う。そのことは、何よりも、本人の可能性に対してフェアではないと感じる。気づいていないのだ。』