ニコ・ロビンインドメタシンブログ!!

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朝からメッセージ

ニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『韓国で、デモがあり、その理由の一つが、政府が教科書を国定教科書にしようとしていることだというニュースを読んだ。今使われている教科書は、「偏向」しているというのが、政府か国定化しようとしている理由だという。いろいろ前提が共有できない。
教育においていちばん大事なことは、さまざまな異なる見方をふまえた上で、批判的思考を通して自分の判断を形成することだろう。事実が一つ、真実が一つという前提で、「国定教科書」をつくるという発想自体が、現代的教育観と相容れない。
日本は戦前は国定教科書だった。今は検定制になっているが、私は検定制にも反対である。何が正しいか、正しくないかを、教科書が有権的に記述できる、という前提自体が知性の本質の理解を欠く。そうは言っても、検定教科書は国定教科書よりはまだましだ。
教科書が「偏向」しているという批判が出るのも、教科書が、単一の「事実」、「真理」を記述するという前提があるからだろう。最初から視点は複数であり、どれが正しいかはそれぞれの学習者が判断するという前提ならば、そもそも「偏向」ということ自体があり得ない。
「教科書」の学習における位置づけも問題である。学習者にとって、「教科書」は、学習の際に接する情報源の一部にすぎない。たとえ、たまたま使っている教科書にある記述があったとしても、他のソースで別の記述があれば、それを参照すればいいだけの話しである。
一つの教科書でそれをまるごと信じて学習せよ、という学習観は、たとえていえば、子どもたちがある問題について論文を書くときに、参考文献が教科書一冊で良い、むしろそれを強要するということにつながる。それがナンセンスで論文としては落第であることは、普通に考えればすぐにわかることだろう。
破壊的イノベーションこそが文明を創り、経済を成長させる現代においては、人々に必要な資質とはまずは現状を「疑う」ことであり、一つの教科書を丸暗記して学習するという学習観は最大の阻害要因になりうる。国定教科書の制定は、一種の反成長戦略とさえ言えるだろう。
たとえば、進化論について創造説やインテリジェント・デザインの教科書があっても良い。どうせ子どもたちはダーウィンドーキンスの書いたものも読む。その上で、どっちがもっともらしいかと自分で判断すればいい。創造説がいい、とたまたま思う人がいたとしても、それはその人の問題だ。
日本の某大学の法学部を優秀な成績で出た人が、ハーバードのロースクールに留学して、最初の授業で教授が生徒にいろいろな意見を言わせて、時間が来たら「それじゃあ」と「正解」を言わないで帰ったので驚いたという話を聞いたが、教育とは本来「それじゃあ」なのであり、その後の思考に宿るのだろう。』
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