小林秀雄が五味康祐と対談した「音楽談義」(音楽について)は、新潮社からCDがかたちを変えて出ているはずだが、もともとは鎌倉の中華料理屋でやったやつだという。音をきくと、くちゃくちゃと食べたり、酒を呑んだりする音も聞こえて、そんな日常の雑音の中に、プラトン的世界が見える。
この対談の中で、小林秀雄はいろいろなことを言っているのだが、ぼくがいちばん感動したのは、バイロイトの感想だった。小林秀雄は、「あんないいものはないなあ」と言ったあとで、こう言っているのである。「ジークフリートは、死なないんだからねえ。」この一言を聞いたとき、ぼくは震撼した。
「ジークフリートは、死なないんだからねえ。」小林秀雄のこの言葉は、表面上はおかしい。ジークフリートは、死ぬ。『神々の黄昏』の中で、ブリュンヒルデを裏切り、その復讐を誓ったハーゲンによって、唯一の急所である背中を槍でさされて死ぬ。それなのに「死なないんだからねえ」とは何事か。
ジークフリートはもともと恐れを知らない。死ぬことすら恐れない。それが、ハーゲンの盛った毒薬で一時的に普通の人になっている。再び毒薬を盛られたジークフリートは、すべてを思い出して、ブリュンヒルデへの愛を歌う。その最中に、ハーゲンの槍が襲う。
つまり、「ジークフリートは、死なないんだからねえ。」というのは、恐れを知らない、つまりは自分というものについてのメタ認知を持たないジークフリートにとって、死というものは存在しないんだ、という小林秀雄の慧眼だ。