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朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20151008071838j:imageニコロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『村上春樹さんの『職業としての小説家』を読んでいて、とてもおもしろいことがたくさんあった。そのおもしろさのポイントは、この本が、実際に小説を描き続けてきた中での「経験則」に基づくもので、特定の理論や枠組みに基づくものではない点にあると思う。
経験則は、確かにそのようなことが人生で、そして世界であるけれども、なぜそうなのか、ということについては十分に理論的な解明、説明ができないことが多い。いわば、宙ぶらりんのまま私たちの前にあるのであって、その宙ぶらりんのまま受け止めるしかないものが、経験則である。
『職業としての小説家』の中にはさまざまな経験則が書かれているのだが、特に興味深かった点の一つが、書き直しに関することである。原稿を読んだ周囲の人や、編集者から、ここが気になる、ここを書き直した方がいいのではないかと言われる。必ずしもその意見に共感、同意するわけではない。
「ここを書き直したら」と言われて、何とはなしに違う、と思っても、結果として、何らかのかたちでそこに手を入れた方が、小説は良くなると村上さんは書く。肝心なのは、その書き直しの方向が、元々指摘、あるいは示唆されたものとは違う場合もあるということだ。
つまり、「ここを書き直したら」と言ってくる人は、そこに何らかのひっかかり、流れていかないものを感じているのである。その結果、「こう書いたら」などと言ってくる。しかし、真実は、そこがひっかかるということの中にあるのであって、書き直しの方向の中に必ずしもあるのではない。
これは、小説だけの問題ではないのではないか。社会の仕組みや、成り立ちについても、多くの人が「ここは引っかかる」「ここが問題だ」と感じ、その結果改善策を提案する。しかし、その改善策そのものの中身よりも、むしろ、「ここは引っかかる」という感覚の方が、信頼できるし、意味深い。
つまり、「引っかかり」は、一つの、心的エネルギーの分布、所在を表しているのであって、その結果の反応として「改善策」が出てくるのであるが、その具体的内容は必ずしも妥当するとは限らない。大切なのは、そこに心的エネルギーが集まっているという事実そのものを認識することであろう。
『職業としての小説家』を読んで改めて大切だと感じたことは、経験に対して開かれていることであった。人生という物語を味わうためには、特定の理論やイデオロギーで眼を曇らせず、起こっていることをそのまま受け止めなければならない。河合隼雄さんとのエピソードにも、それに関わることがでてくる。