紙の本は、モノとしての不便さがあるからこそ面白い
電子本と紙の本では、何か違うのか、という質問を時々受ける。紙でなければいけないということはないだろうし、電子本の方が、活字を変えられるなど、メリットもある。しかし、電子本と紙の本の最大の違いは、個人の体験を超えたところにあるのではないか。
私は電子本もたくさん読んでいるが、いちばん寂しく思うのは、読み終えて、ああ、これはいい本だったなあ、これ読んでみなよ、と友だちに渡せないことである。紙の本だったら、自分が頁をめくったその本をはいよ、と渡すことができる。考えてみると、これはたいへんなメリットではないか。
モノには、個人を超えたところがある。私の友人の塩谷賢は、むずかしい哲学書など、やたらと線を引きまくるが、塩谷の読んだあとのヘーゲルやカントなど、持っていたいものだと思う。紙の本は、それを持ち過ごした時間が蓄積して、次の人に引き渡される。これは、モノとしての本しか持ち得ない性質だ。
外国などで、古本屋で本を買うと、時々、元々は図書館にあったと思われる本が混じっている。図書館の蔵書が見直されて、市場に「放出」されたのだろう。図書館のエンブレムが押されていて、貸出の記録が残っていることもある。スクール・ライブラリのこともある。そんな時、何かうれしい。
古本屋で本を買うと、時間や空間を超えて、知らない人とつながる気がする。蔵書印が押してあったり、メモが書いてあったり、名前があったり、書き込みがあったりする。そのような「メッセージ・イン・ア・ボトル」性は、モノとしての紙の本だからこそある。
もちろん、以上のような時間と空間を超えた人と人とのつながりは、デジタルデータでも、やろうと思えばやれるだろうけれども、それは技術の本質ではない気がする。デジタル・データには即時にシェアできる便利さがあるが、モノは、不便だからこそ、一種の「身体性」が立ち上がる。