ウォーホルに、Flowersという作品がある。色のバリエーションはあるが、4つの花がならんだやつ。ほんとうにきれいなのだが、実は、これはウォーホルが見つけた新聞掲載の写真が元になっているのだという。
最初にそのことを知った時、衝撃で、何しろ、Flowersはサイズも大きく、花たちの存在感も鮮明で、まさか、その元となったイメージが、新聞に載った(確か読者が投稿した)ほんとうに小さな、しかも画質の悪い写真だとは夢にも思わず、そのことを知った時、さすがウォーホルだとむしろ思った。
今はインターネットから画像を参照してくるのが本当に簡単な時代になっていて、そのこと自体は良いことだろう。では、どこに、単なるパクリと創造行為の線引があるのかと言えば、例えばウォーホルのFlowersのような、「熱量」の存在なのではないかと思う。
ウォーホルのFlowersの元に新聞の粗い写真があったと聞いても、私たちはそれがパクリだとは思わない。むしろ、そのような、日常で見過ごされがちな瑣末な事象を、よくファイン・アートにまで拡大したと、ウォーホルをリスペクトする。逆に、パクリと見なされるのは、そんな実質がない時だろう。
創る側から見ても、ネット上にある写真やテクストを適当に切り貼りする行為には、歓びはない。創造の歓びは、いわば、自分を追い詰める点にこそある。パクってマーケットでそれなりに流通するものを創ったとしても、そこには創造の歓びはない。そのことを、ウォーホルのFlowersで思い出した。
なぜ、こんなツイートになったかと言うと、昨日、街を歩いていて、通りすがりの店の壁に、Flowersのプリントが架けられていたからである。カントが『永久平和のために』というタイトルを宿屋の看板から着想したという故事にならって、拙者も創造について考えてみたでござるよ。』