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朝からメッセージ

f:id:barussnn127:20150616074505j:imageニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『にいるかもしれない人たちの話をたくさん聞いた。意識の科学は、メインストリームから端までいろいろな人がいる。インドから発表に来ていた女性は、人間は裸で生まれて来て、死ぬときには関係性がみな消えるのだと言った。
最近、小説を真剣に書くようになって、ものの見方が少し変わったというか、学会でメインストリームの流れの中で研究している人と、外れている人は、学問的には前者の方が面白いことが多いが、人間的には後者の方が味わい深いことが多い。その、人間は裸で生まれ、の女性も、実に興味深かった。
それで、何人か、どちらかというと少数派の意見者(量子論と意識の関係とか、観念論的な哲学を背景にしているとか、要するに、neural correlatesのような、学問的に安全牌のテーマじゃない発表をしている人)と話していて、彼らが自分の意見をストレートに言うことになんか感動した。
記憶はしばらく前に飛んで、アトランタSfN(こちらはメインストリームの人たちしかいない学会)があった時、タクシーの運転手さんたちが、多くはアフリカ系だったが、同性愛について自分の意見をストレートに言うことに感銘を受けた。賛成も反対も、「私はこう思う」と率直に言う。
人間は、そうあるべきだなと思う。今日本を揺るがしている安保法案(明確に違憲であり、私は反対)にしても、賛成にせよ、反対にせよ、自分の結論と、そこに至る論理(賛成の論理にどのような整合性があるのか、私は理解していないが)を言って、それでスッキリとしていればいい。あとは必要なら議論。
これは日本の風土病だと思うのだが、賛成にせよ、反対にせよ、違う意見を言う人に対してウェットな反応をする人が多い。ぼくは思うのだが、人間の意見が違うのは当然で、ああ、あなたはそう考えるのですね、私はこう考えます、とりあえず平行線でいい。ところが、へんな暗黙の前提があったりする。
日本の風土病の中に、人は同じ意見でなければならない、という奇妙な同化圧力があって、だから、違う意見の人に対してウェットな反応をしたり、抑圧したりする。つまらない話だと思う。それでは、意見の多様性がない。自分の意見を言って、それですっきりおしまい、で何が悪いのか
日本人のこのあたりのウェットな心性は、学問でもあって、自分や他人の仕事がメインストリームかどうか、きょろきょろ、うろうろ、いつも気にしている人が多い。学生の頃は、それが学会というものかと思ったが、世界では、そんなこと気にせずに我が道を行く人もまたいる、ということをそのうち学んだ。
最初の話に戻る。学会では、自称メインストリームの夜郎自大よりも、マイナリティの立場でも堂々と意見を主張している人に話しを聞く方が、人間的には面白い。残念なのは、後者の学説が多くの場合「石」であることだが、「石」であることの自由が貫かれているのは、きっと何よりも尊い。』