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いきなりメッセージ

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負け惜しみ明太郎ニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ『をおかした青年が、刑事に追われて、やがて追い詰められ、捉えられる。流刑地で迎える感動のラスト。「文学」という言葉が大文字で書かれるにふさわしかった時代の、天才の痕跡である。

世の中には二種類の人がいる。『罪と罰』をすでに読んだ人と、これから読むべき人だ。そんな名作が誕生した経緯が面白い。ドストエフスキーは当時賭博による莫大な借金を負っていて、その支払のために超特急で『罪と罰』を仕上げた。口述して、それを速記者が記録したのである(後に彼の妻になる)。

以前、ロシア文学通に聞いたところだと、ネイティヴのロシア語話者にとって、トルストイドストエフスキーの文体は違うのだそうだ。格調高い前者に対して、後者はくだけて通俗的なのだという。『罪と罰』は口述されたわけだから、まさに砕けているのかもしれない。しかし、翻訳で読むにはわからぬ。

文体の問題は難しい。日本において、「芥川賞」が対象とするる作品は、やはり文体がすぐれていなければならない。ここ数年の受賞作を振り返っても、すべて、文体に工夫、美学があるものばかりである。では、文体の洗練が、小説の本質とどう関係するかというと、はなはだ疑問である。

村上春樹さんが世界的に受け入れられ、ノーベル賞の候補になる以前、日本の文学通の間で、その評判は必ずしもよきなかったと記憶する。しばしば揶揄されていたのは文体であった。翻訳調であるとか、通俗的であるとか。しかし、その文体は、村上作品の本質ではおそらくなかった。

村上春樹さんの作品が多くの言語に翻訳され、読者を得ているということは、つまり、その小説の生命は、日本語の文体の洗練ではなく、もっと抽象的な意味の世界にあるということを示す。ドストエフスキーの文体をロシアの文学通が批判しても、本質とは関係ないことと同じだろう。

誰もが認める文体の洗練を見せる作品も、その本質は文体にないのかもしれない。夏目漱石の『三四郎』を英訳で読むと(訳者は多くの村上作品を訳しているJay Rubin氏である)、原作の持つ魅力が別の角度から見える。たとえば、脇役の与次郎の存在感が増すのである。


文体は、文学の大切な要素だが、文体が邪魔をして、作品の本質がかえって見えなくなることもあるかもしれない。くだけた通俗的な文体で、口述され、速記されて超特急でできた『罪と罰』が、間違いなく世界の歴史に残る文学性を持っていることは、とても示唆的である。』