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いきなりメッセージ

f:id:barussnn127:20150428141803j:imageニコ・ロビンプレゼンツ茂木健一郎さんからのメッセージ❗️『
和田秀樹さんは、昨日、AO 入試を批判的な文脈で語った。ペーパーテストを重視すべきであると。対して、私は、すべての入試はAO入試になるべきだと主張している。なぜこのような見解の相違が生まれるかというと、「学力」の捉え方と、AO入試の中身についてのモデルが違うからだ。

私は、入試は学力重視でいいと思う。そして、学力重視を論理的に貫くと、AO入試になると思っている。ペーパーテストの点数は、学力の指標としてはもはや機能しないと考えている。なぜならば、学力は、それぞれが深めるもので、スコアで標準化できるものではないからだ。

ここに高校生がいる。彼は、15歳で、カーボンナノチューブを使ったすい臓がんの治療法を考えるかもしれないし、ABC予想関連の数学の定理を証明するかもしれぬ。あるいは、英語で、偉大な小説を書くかもしれない。すべて、「学力」であるが、その尖っている方向は、それぞれ違う。

知性とは、オープンエンドなものである。これは皆が同意するだろう。どの方向に知性を伸ばすか、その自由度は無数にある。それぞれが伸ばした知性を、たったひとつの標準的なペーパーテストで測ることなどできない。むしろ、紙試験は「プロクルーステースのベッド」となる。

標準的な紙試験のスコアを重視することは、古代ギリシャの「プロクルーステースのベッド」の神話のように、旅人がベッドより小さければ手足をのばし、大きければ切ってしまう。いずれにせよ殺してしまう。そのような乱暴なやり方で個人の知性のプロフィールを矮小化することである。

むろん、誰もが身につけておくべき基礎的な知見、というものがあるのかもしれない(そのような知性モデル自体がdoubtfulであるが)。しかし、そのような知見に関する紙試験は、(アメリカのSATのように)最小限度に止め、それ以上の学力延伸は個々人の自由な裁量、本能に任せるのが正しい。

つまり、AO入試とは、標準的な紙試験では<原理的に>測定しえない個々人が延伸した学力を計量するという、きわめて緻密なアルゴリズムであって、いわゆる「人物重視」だとか、「部活やボランティアで努力してきたからご褒美」といった、曖昧な話ではないと、私は考えている。

ビル・ゲイツのように、高校に行かずに自分の会社のプログラムに没頭する人、生化学の実験室にこもっている人、流麗な英語の文体で高校時代からエッセイをものにする人。そのような人が、私が想定するAO入試のスター受験者である。紙試験ごときに、知性の天空への舞を、邪魔させるな、ということだ。

もっとも、以上の意味での「学力重視」のAO入試には、非典型的な知性をどう評価するかという難しい問題がある。アメリカの大学のAOは、そのようなノウハウを長年にわたって蓄積している。日本でもノウハウの構築を始めるべきだろう。必要ならば、人工知能の助けを借りてもいいと思う。

すべての大学入試は、AO入試になるべきである。そして、そのAO入試は、紙試験では達成できないほどの、深く、遠く、非典型的な知性、学力を測定するものでなければならない。「プロクルーステースのベッド」はアルゴリズム的に単純なので、多くの浅い考察者の基準になりがちだが、廃止がよかろう。』